【福岡県】北九州小倉南区|巨大な岩

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雑多記事を書いているfumiと申します、2022年はYouTube連動の記事も書いていこうと言う事になり、早速YouTubeであげた記事を書いて行こうと思います、笠岩は北九州小倉南区の山中にある大きな岩です、そこはまるで中国にあるかのような雰囲気で、一度訪れてみたいと思い探索してきました。

目次

【笠岩】

笠岩

ここは、北九州市小倉南区長野にある、笠岩と言う大きな岩を訪ねて来ました。写真の通り山の斜面に聳え立つその姿は何とも言えない貫禄があり、ネットサーフィンをしている中、あっこれは登って是非この目で直に観てみたいと衝動にかられ2022年1月22日登頂して来ました。

小倉南区は、未だ自然が一杯。
中でも、長野緑地周辺には長野城を中心に中世の山城跡が沢山ある。
長野城跡は、黒田官兵衛の馬ケ岳城跡にも引けを取らない史跡と言えるが、それ以上に凄いものは、天然記念物に指定されても良いと思う「岩海」です。
花崗岩が隆起して山となり、長い年月をかけてそれが欠け、大きな岩の塊となって地表に残されたのが「岩海」。
山中に何故このような大岩がゴロゴロ転がっているのか不思議である。
耳を澄ませば聞こえてくる「岩海」下の水脈の音。
この音を聞いていると、自らが自然の中に染み込んで行く気がする。
長野城周辺には、その出城として丸ケ口城・堀越城等がある。
この堀越城跡の数十メートル下の所にデンと構えて、近くは横代・葛原、遠くは玄界灘や周防灘を眼下に見下ろす奇岩「笠岩」がある。
この「笠岩」も岩海の中から転げ落ちて、偶々バランス良く下の岩に乗り上げてそのまま残った大岩です。ここでも耳を澄ませば何処からとも無く水の流れる音が聞こえて来ます。

引用:https://www.kitakyushu-museum.jp/resources/1749

アクセス

住所:〒802-0824 福岡県北九州市小倉南区横代
施設名:長野緑地公園西駐車場(東・中央・西と駐車場があります)
料金:無料

長野緑地公園西駐車場の脇から登山口がありますので、高速道路の下をくぐり進んでいくと、看板が出ていますので山中入って行きます、この長野緑地公園が整備された事により、登山道の整備も進められたと伺う事が出来ました。

神聖な場所

色々な場所を登頂して来ましたが、ここに来て大変驚いたのは、この写真のように木々が石を抱え込んでいる姿を沢山見掛けました、関西でもここまでの石を見た事がないのですが、地元の方に尋ねると、結構な数があるとの事で珍しくはないとの事です。

この岩も、不思議な現象でした、岩の下から木が生えて割ったのか?それとも岩に穴か何かがあってそこから生えた木が生えたのか、自然界のパワーには本当に驚かされる事ばかりです。

どれくらい昔から存在しているののかと考えると神秘的に思えます、しかし意外とここにおける情報は少なく、パワースポットの記述は見られませんでした、多分知名度が低い分検索もされていない隠れた名所なんだと感じております。

長野城跡

豊前長野城は平安時代に栄えた畝状竪堀の数が日本一の城と言われており、今回笠岩を拝見した後に縦走ルートみたいな、笠岩→長野城へ山中移動を行いました、長野緑地公園から笠岩までの道中と比べると、非常に険しく、獣道みたいな法面を笠岩から50分程歩くと到着します。

築城主は平康盛とされており、1157年の山城となります。

【位置・構造】
現在の北九州市小倉南区長野の、標高209mの城山の山頂に位置する。山頂の削平地に本丸、その北東の方形台地に櫓があったと推定されている。城の周囲のほとんどを200以上の畝状竪堀で取り囲んでいるのが特徴で、現在もその遺構が残っている。山麓には城主だった豊前長野氏の菩提寺である護念寺がある。

【歴史】
『豊前志』の記述では保元2年(1157年)に平康盛が当城を築き長野氏を称したとされる。しかし現在では長野氏の出自は太宰府官人または長野荘の荘官と考えられており、創始は定かでない。南北朝時代以降、長野氏は当城を本拠として企救・田川・京都郡などを勢力下においた。

やがて長野氏は大内氏に属し、永禄元年(1558年)に毛利氏が門司城を落とすとその勢力下に入っている。毛利氏が九州から撤退した後の永禄8年(1565年)には大友氏が来攻し、長野氏を支配下に入れた。天正15年(1587年)の九州征伐の後は筑前国に小早川隆景が入り、長野氏はその家臣となって当地を去り、長野城は破却された。

引用:角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』

山中を記しを伝い歩いていくと、立派な看板が設置されています、この他にも確認できたのが二の丸と書かれた物がありましたが、何となく畝状竪堀?といった物が目視で幾つかみる事ができました。

また山城に向かう途中に立派な城の石垣に使えそうな大きな岩が多数存在していました、誰かが積み上げたのか?それとも自然に積み上がったのかは不明ですが、思わず記念写真を撮ろうとしたら、撮影台が準備されていることに気づき、ここで皆さんが撮影するポイントなんだと一目瞭然で理解が出来ました。

確か大阪城に運ばれた石垣は香川県からでしたが、十分それに匹敵しそうな石でした、小倉城の石垣使えそうですが、小倉城の石垣は同じく南区の島から運ばれたと記事が残っていました。
山から陸を移動する手段がなく、海・川をうまく利用し城を築いたのでしょうか、想像するとキリがありませんが探究心が湧きます。



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